仏陀は「無常」という言葉を用いて、すべてのものが変化し続けることを説いた。
生きている限り、私たちは何かを得たり失ったりする。手に入れた瞬間に、それは同時に失われる運命を背負っている。それでも私たちは、何かを掴み続けようとし、変化を止めようとする。しかし、変化を拒むことは、すなわち苦しみを生むことなのだ。
私はこのことを、本当に理解しているのだろうか?
無常を「知識」として知ることは簡単だ。しかし、それを「気づき」として深く腑に落とし込むには、思索と経験が必要になる。人生の中で何かを失うたび、変わるたび、私はその意味を問い直す。
なぜ無常は苦しみになるのか?
何かを失ったとき、人は悲しむ。愛する人、大切な思い出、健康や若さ——失うことは痛みを伴う。しかし、失うこと自体が苦しみなのだろうか?
例えば、木の葉が季節とともに色を変え、やがて落ちていく様子を見て、私たちは苦しむだろうか。そこには哀愁や美しさを感じることはあっても、「執着」はしない。それは、木の葉が落ちることを「自然の理」として受け入れているからだ。
だが、人間関係や自分の持つものとなると、途端に執着が生まれる。「この人とはずっと一緒にいたい」「この成功を永遠に維持したい」と願う。その思いが強ければ強いほど、変化が訪れたときに苦しみは深くなる。
もし、無常を「自然の理」として受け入れることができたら、私たちの苦しみはどれほど軽くなるだろうか?
変化の美しさに気づく
ある日、庭の小さな花を見ていた。朝には開いていた花が、夕方には少ししぼんでいた。次の日には完全に散り、新しい蕾が膨らんでいた。毎日、同じように見える景色も、細かく見れば変化し続けている。変わることは、なくなることではなく、新しい何かを生み出すことでもある。
もしも、すべてが止まっていたらどうなるだろう?
春の桜が一年中咲いていたら、私たちはあの儚さに心を動かされることはない。変化があるからこそ、私たちは「今、この瞬間」の価値を見出すことができる。
私は庭のハーブの葉を摘み、ハーブティーを淹れた。湯気が立ち上るその瞬間も、やがて消えてゆく。しかし、その香りと味わいは、今この時にしかないものだ。ハーブティーもまた、無常を映す存在なのだ。
手放すことで得られる自由
仏教では「執着を手放すこと」が解放への道であると説かれる。しかし、手放すとはどういうことなのか。
手放すとは、諦めることではない。変わることを受け入れながらも、その瞬間を精一杯生きることだ。明日がどうなるかわからないからこそ、今日を大切にできる。
無常を受け入れるとは、今のこの一瞬を味わい尽くし、次の瞬間にはそれをそっと送り出すこと。
それができたとき、私たちは本当の意味で自由になれるのかもしれない。
思索の果てに
私は無常について考え続ける。
「なぜ変わるのか?」
「変わることはなぜ怖いのか?」
「変わることを喜びに変えるには?」
問い続けることで、少しずつ、その答えが見えてくるような気がする。
そして、気づく。
無常とは、儚さではなく、生きることそのものなのだ、と。