「苦しい体験は自分を成長させるための試練だ」という解釈。単なる「そこに起きた物理的事実(Is)」に対し、人間が勝手に『意味』という幻想を貼り付けて酔いしれる行為が、なぜ現実の直視を阻むのか。
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それはもともと、我々人類も、地球上のあらゆる物質も、星もこの宇宙や世界は、なにかが作ったものであり、それを私たちは理解することはできません。
理由があったとすればそれは理解不能なのだと思います。
そして、それぞれに不条理というバグ(黒コショウ)がランダムにしこまれています。
つまり、生まれた段階で決められているのです。
意味などなにもありません。ただ衝動的にそのバグがあるだけです。
不条理によって人間は感情とそして目的を持つことができます。
人間は目の前に餌をぶら下げていないと生きづらい生き物です。
すべてに苦しい体験がないとする世界は、ただただ平和なだけで、なんの感情も生まれません。よって幸せと思うこともありません。
これをいい世界とするか、悪い世界とするかは、あなた次第です。
人間は感情がある限りは、光を見たいのなら、暗闇を知らないと光の明るさを知ることができないことと同じです。
光も暗闇も知る必要がなければ、ただの機械ではあります。その機械でさえ、感じ取っているというのが私の主義ではありますが。機械や花などは、まぶしい!暗い!などと口で言わないだけですね。
ですから、苦しい体験はあなたを成長させるためではなく、ただその時にそれがやってきただけなので、見過ごすしかありません。
通り道の石ころが小さいか、そこに越えられそうもない大きな岩があるか、だけです。
ただ、石をよけるか、飛び越えるか、破壊して進んでいくか、という現実を見て=目の前のその苦しみを直視して生きていくほかないのです、人間というものは。
